「国宝 子島曼荼羅」その1

復原模写完成記念特別陳列
奈良国立博物館(7/22-8/20 2006)


(7/23の日記のつづき)
伝香寺から奈良博へ移動。途中、適当な店をみつけてカレーを食べた。


さてこの特別陳列は、奈良・子嶋寺が所蔵する国宝「子島曼荼羅」の復原模写が
完成したのを記念して、国宝原本とともに復原模写を展示するというものである。


子嶋寺といえば3年前、大学の同期 T郎君 と高取城(跡)を攻略する*1前に訪ねたことがある。
その際お寺の方に曼荼羅の話などを聞いて、幾分興味を持っていたのが
今回の展示を見に行こうと思った縁になった。
(お寺や曼荼羅の存在自体は、訪問以前から知ってたが)
子嶋寺は真言宗寺院だが、ご住職の姓が 密門(みつもん) さん(!)だということを会場で知った。
尚、後で気付いたが展示での表記によれば、寺名は 子嶋 、曼荼羅は 子島 と「しま」の字が異なる。


会場は東新館。
同時開催の 親と子のギャラリー「探検!仏さまの文様」 の奥の方で、子島曼荼羅は展示されていた。
その手前に紺地の両界曼荼羅が掛けてあり、これが子島曼荼羅か?と思わせるが、
これは子嶋寺とは近い場所にある、南法華寺(壺阪寺)の鎌倉時代のもの。
子島曼荼羅はもっと大きいということは、事前情報で知ってた。


会場奥の両隅のケースに、ふたつの胎蔵界曼荼羅が。*2
まずは右側の原本から。距離をとって、全体を眺めてみる。
…大きい……(胎蔵界法量 縦351.5 × 横306.2 センチ)。*3
一度くらいは展覧会でみたことあったかもと思ってたが、これは初めてだろう。
これほどの大きさ、ケースの前を通ってたなら記憶してるはず。
子嶋寺には、全体を縮小したか、あるいは原寸大で中央部分のみをうつした複製が
あったと思うが、実物はその9倍はあるだろうか?


「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」が、正式な指定名称らしい。
この曼荼羅は、子嶋寺中興の祖とされる真興が、長保年間(999-1004)に
一条天皇の病気平癒を祈り、その恩賞に天皇から下賜されたものと伝えられる。
実際の製作年代も、作品の特徴からみて10〜11世紀にかかる平安中期と考えられ、
寺伝にある下賜の時期とも矛盾しないという。
千年もの間、よくぞ今日まで残ったものだ…。


近づいてみて、個人的に気になったのは、
平等院・雲中供養菩薩像のポーズに類似した尊像があること。
とくに蓮華部院(観音院)の 寂留明 などをみてそう感じた。
平等院像の一部には、金剛界の菩薩の尊名が記された墨書があり、したがって一連の群像は
密教に基づくものともみられる。
となると平等院像は、単に音楽や舞に興じる楽しげなイメージから立体化したのではなく、
そのポーズも密教図像にルーツがあるのかもしれないと思った。
こんな想像くらいは、もうすでに先人が考えてるだろうけど。


あと、中台八葉院のすぐ上の三角形(一切如来智印)が、東映のあのマークにみえた。
この大きさゆえの感覚か…。
(つづく)

*1:もともとの目的は壺阪寺の秘仏だったが、高取城跡はなかなか素晴らしいところでした。いつかまた行きたい!

*2:各原本・復原模写は7/22-8/6は胎蔵界、8/8-8/20は金剛界と分けて展示。

*3:法量は今回の図録による。尚、金剛界は 縦352.6 × 横298.0 センチ。