「ベルギー王立美術館展」その2
(きのうの日記のつづき)
展覧会の序盤、ブリューゲル(この名は何人もいるけど)、ルーベンス、ヴァン・ダイクらの名前は知っていたが、ヤーコプ・ヨルダーンスも聞き覚えがあった。
しかしルーベンスの大画面が並ぶのを、こう空いている中でみられるのはなかなか贅沢な気分だ。去年(「プラド展」)につづいて大阪でルーベンスをみられるとは思ってなかったが。なお展覧会では、「家族に囲まれ、庭で制作するルーベンス」*1という後世の作品も展示されていた。
きらびやかな色彩でおとぎ話のようなピーテル・ブリューゲル〔子〕の「婚礼の踊り」、昔日の王様ゲームを描いた(?)ヤーコプ・ヨルダーンス「飲む王様」といったポスター・チラシに載っていた作品もチェック。ヤーコプ・ファン・スワーネンブルフの「地獄のアイネイアス」は、ボッシュ、ブリューゲル的な怪物を描いたもので、この手の地獄絵の実物をみるのは初めてであった。
図録を買わなかったため、どれがどうとは指摘できないが、さすが「フランダースの犬」なんてお話があるくらいだからなのか、高貴な肖像画にせよ、農村の風俗画(?)にせよ、画中に犬を描いたものが少なくなかった。
象徴派の章では、それまでのキャンバスに油彩という伝統的な手法とは異なる、地も絵の具も、素材が多様化した作品がみられた。中世美術のような金地の背景のものも、たぶんあった。こういう取り組みは、この時代―世紀末芸術というらしいが―に意識的に行なわれたのだろうか。
クノップフやアンソールは、家にある西洋美術史の本を開けばその名が見つかるけれど、今回の展覧会でようやく認識した作家であった。
最後にデルヴォーとマグリットの作品で展示は終わる。当日の昼間はダリ展に行ったから、くしくも同じ日にシュルレアリストとよばれる3人の作品を見たわけだが、今の私にはベルギーの彼等の方がすんなり「入ってくる」ように思えた。もっとも、鑑賞した環境の違い(ダリ展はすさまじい混雑だった)も、その感想に影響してるだろうけれど。
デルヴォーの「ノクターン」。この絵をみて、『三四郎』に登場する画家・原口さんの語りを思い出した。
「・・・西洋画の女の顔を見ると、誰の描いた美人でも、きっと大きな眼をしている。可笑しい位大きな眼ばかりだ。ところが日本では観音様を始めとして、お多福、能の面、もっとも著しいのは浮世絵にあらわれた美人、悉く細い。みんな象に似ている。何故東西で美の標準がこれほど違うかと思うと、ちょっと不思議だろう。ところが実は何でもない。西洋には眼の大きい奴ばかりいるから、大きい眼のうちで、美的淘汰が行われる。・・・」
しかしこの絵の女性の眼はでか過ぎる、というのは一緒にみていた友人も同じ意見であった。
閉館時刻になって外へ出ると、向こうの雲の一部分だけ不思議と穴が開いていて、そこから赤い空が覗いていたのは絵画的な風景だった。
(6/21の日記おわり)