京博「最澄と天台の国宝」まえがき その1

天台宗開宗1200年記念と銘打たれて、昨秋京都国立博物館
開催された特別展「最澄と天台の国宝」(10/8-11/20)。
東京国立博物館での開催が近づいており、とっておいた展覧会の関連新聞記事を最近
ようやくスクラップしたりもしたので、この機会に図録やメモ、自分の記憶を頼りに
感想をまとめておこう。
過去のことをいまになって書くのは「日記」とはいい難いが、プロフィールにあるとおり、
これはあくまで日々少しずつ薄れてゆく記憶を補助するための日記です。

展覧会の名前

この展覧会は、会場である京博や主催者のひとつである読売新聞等で、
数ヶ月前から開催が予告されていた。
それで開催前から気になったのが、展覧会の名前のことだ。


気になったというのは「国宝」という部分。
国宝という言葉からイメージされるのは、国宝・重要文化財といった
いわゆる国指定文化財としての国宝だ。
実際、私は最初そういう意味で「国宝」をとらえた。


その点で引っかかるのが、
「国宝」を前面にフィーチャーしてもよいのか?
ということ。


確かに展示品のうちには国宝指定のものもあるだろう。
しかし、全体からみればそれは一部だ。
国宝・重文指定の有無は、鑑賞する側の目安ともなる。
展覧会名に「国宝」とうたわれていれば、入場者の多くはその国宝に期待するだろう。
その結果、国宝にばかり注目が集まり、その他の展示品は足を止められることもない…
という風になりはしないか。
展覧会にはいくつもの展示品があるが、それぞれにひとつひとつ価値をもつからこそ
企画する側はそれらを一堂に集めるはず。そこに文化財指定の有無はまったく
関係ないとはいわないまでも、すべてではなかろう。


まして今回の展示品は宗教美術である。
従来からいわれているが、仏像など信仰上の所産を美術品・文化財として扱うのは
精神的にデリケートなことである。
その上で指定文化財としての「国宝」が強調されると、
先人が守り伝えてきた遺産をただのモノ扱いしていると批判されかねない―


というような思いが、私の頭の中にあった。


しかしそれは余計な心配であった。
京博も上述のような誤解が発生するかもしれないと予想したのだろう、
企画の意図をちゃんと説明してくれていた。
展覧会のPR文中にはこうある。
(参考:京都国立博物館HPより展示案内→これまでの展示)

文字通りの国宝・重要文化財が目白押しですが、これらはたんなる古美術ではありません。最澄が「国宝とは金品でなく、一隅を照らす人である」(『天台法華宗年分縁起』)と述べたとおり、まさに国宝たる先徳たちの想いの結晶です。会場でさまざまな仏に出会い、そのような想いに触れていただけたら幸いです。

そう、「国宝」とは伝教大師最澄の語にあるのだ。
主催者は、展覧会名にその意味を込めていたのである。
同様の注記は実際の会場でも、第1室でみたように記憶している。
また京都展のポスターにも、
国宝とは―
仏であり、
美であり、
人である。
というコピーがあった。