蜥蜴は多少好きだ。

図書館で志賀直哉の文庫本を借りた。


小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

この新潮文庫の表紙の絵、なんか見たことある感じだなと思ったら、熊谷守一だった。よく見ると右端に クマガイモリカズ と、例の釘で引っかいたようなサインがちゃんとある。

国語の授業で「城の崎にて」を知ってる人もいるらしいが、私は記憶になかった。実際読んでみたところ、やはり初めてだったと思われる。したがって、この文庫の最初に収められる「佐々木の場合」が、私にとって初めて読んだ志賀直哉作品ということになる。その「佐々木の場合」はなかなか面白かった。ほう、志賀ってこういうものを書く人なんだ、と思った。頭に 亡き夏目先生に捧ぐ とある。もちろん漱石のことだ。


「城の崎にて」の中 何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。 という一文に鉛筆だかシャーペンだかで薄く線が引いてあった。フリーハンドのひょろっとした弱い線である。その一文の前の部分を含めて引用するとこうだ。

 そんな事があって、又暫くして、或夕方、町から小川に沿うて一人段々上へ歩いていった。山陰線の隧道の前で線路を越すと道幅が狭くなって路も急になる、流れも同様に急になって、人家も全く見えなくなった。もう帰ろうと思いながら、あの見える所までという風に角を一つ一つ先へ先へと歩いて行った。物が総て青白く、空気の肌ざわりも冷々として、物静かさが却って何となく自分をそわそわとさせた。大きな桑の木が路傍にある。彼方の、路へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラと忙しく動くのが見えた。自分は不思議に思った。多少怖い気もした。然し好奇心もあった。自分は下へいってそれを暫く見上げていた。すると風が吹いて来た。そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。

弱い線だが、意図的に引かれた傍線なのだろう。誰が何のために引いたのか?想像する面白さがある。


全18作品を収録した短編集で、その内はじめの方の5・6編を読んだ。

あとは同じ本を買って読もうか。数少ない私の蔵書に加えておく価値はあるだろうから。

そして傍線は消して図書館に返そう。